西村伊作

異色の建築家 西村伊作

紀州材木の集散地の和歌山県新宮町は陸の孤島であったが、海に向かって開かれ、西洋文化の波が押し寄せる町であった。新宮教会を建てるなど熱心なクリスチャンであった大石余平は、アブラハムの子の名前イサクをわが子の名とし、大石伊作は明治17年(1884)に世にでることとなった。その後、濃尾大地震(1891)で両親を亡くし「吉野第一の山林地主」といわれた母方の西村家を継いだ『西村伊作』は、その西村家の資産がその後の活動を少なからずささえることとなる。

名家で教育家の家柄で育った父の余平は、西洋の生活様式と考えを取り入れていた。このことが幼少であった伊作に大きく影響し、彼の生き方にもあらわれている。

西洋料理や建物等の絵画に興味を持ち洋服を着るなどハイカラな伊作は、新宮町での青年時代には、社会主義に傾注し叔父の大石誠之助らと大逆事件(1910)に関与していたこともあったが、その後は内外の一流の芸術家や知識人との幅広い交友関係を持つようになった。

伊作は、自分の理想の生活空間の中で、リベラルで家庭教育的な雰囲気において教育を行うべきと考えており、「未来の文化的生活を営む素養を与える」ことを目標として、大正10年(1921)に、文化意識をもった家庭の子女のための「文化学院」を与謝野鉄幹、晶子夫妻らとともに、東京都の神田駿河台に創設した。

教授陣には与謝野夫妻、洋画家の石井柏亭、音楽家の山田耕作などのスタッフをそろえ、伊作は長女のアヤ(二代目校長)を入学させた。画家・竹久夢二、小説家・谷崎潤一郎、詩人・萩原朔太郎など、大正時代のそうそうたる芸術家、作家や文化人の子女の多くが「文化学院」に集まっていた。

この校舎は英国の農家風で、静かな田園の中に建つ住宅のイメージであり伊作が設計した。

伊作はこの時37歳であった。小さいときから建築に興味を抱き続けていた伊作は、21歳(明治38)の時はじめての設計でツーバイフォーの小さなバンガロー形式の自宅を新宮に建てているが、大正4年(1915)には本格的な純木造洋館(現・西村記念館)の住宅を建築した。

神田駿河台の文化学院に転居するまでの10年近くをここで生活し、ここのサロンには同町の作家の佐藤春夫など多くの知識人や芸術家が集まっていた。

当時、この「新宮の家」を著書『楽しき住家』に紹介したり、学院内で再刊(大正10)された第二次「明星」に『家』のことを連載したり、伊作は様々な執筆活動を行っている。

このことで建築家として注目をあびるようになり建築設計の依頼をうけるようになった。

大正10年の文化学院の開校とあわせて西村建築事務所を学院内と兵庫県御影(現・東灘区)に開設し、その彼が設計した建物の中で、「倉敷教会会堂」(大正12)と「若竹の園」(大正14)が倉敷市内に現存し、今も使用されている。

建物の根本は人間の住家であり、生活の理想なくして設計することは無意味であるとの信念のもとに、住宅については心の安定と心の開放の場で「快適であること」を大切にし、また人間の精神的な表現を取り入れての設計をした。

生涯独学で建築を学び、自らを『素人建築家』と呼ぶ伊作であった。

大正という一時代の中の文化学院は、教育史的には自由教育の一つであったが、芸術家、知識人がとりまくなかにユートピアとしての自由な創造的空間をもち、それはこの時代の雰囲気そのものであったといえる。建築史、教育史そして文化史にも名をとどめる『西村伊作』は、大正が残した「異色の建築家」であった。

※参考文献 加藤百合著『大正の夢の設計家―西村伊作と文化学院』

倉敷市『第一回建築文化賞』1993.受賞作品集より